葛飾ゆかりの人 た行

高橋 陽一

漫画家

TAKAHASHI,YOUICHI (1960~)

高橋 陽一

[在住期間:1965~1967] 地区:四つ木

サッカーを題材とした「キャプテン翼」がデビュー作。アニメ化もされ、日本のサッカーブームの火付け役となった。2012年には葛飾区が「キャプテン翼」のイラストを「ふるさとナンバープレート」として使用した。

略歴

1960年
東京都葛飾区四つ木生まれ。出身高校は都立南葛飾高校で、2002年まで立石に在住。
小学校5・6年生の頃から漫画を描き始め、高校時代に漫画家を志す。
主にスポーツを題材とした作品を執筆。
1980年
「週刊少年ジャンプ」にサッカーを題材とした「キャプテン翼」が読み切り作品として掲載されデビュー。
1983年
「キャプテン翼」がアニメ化。日本のサッカーブームの火付け役となった。以降、続編として「キャプテン翼 ワールドユース編」「キャプテン翼 ROAD TO 2002」「キャプテン翼 GOLDEN-23」「キャプテン翼 海外激闘編 INCALCIO」「キャプテン翼 海外激闘編 EN LALIGA」を発表。
2004年には作中で主人公・大空翼が在籍するスペインの名門チームFCバルセロナの会長から直々に招待され、貴賓室で試合を観戦するなど、一連の作品は世界各国で絶大な人気を誇っている。
単行本の売り上げも累計7000万部を超える大ヒットとなっている。
2012年度、葛飾区では税務課が「ふるさとナンバープレート」で「キャプテン翼」のイラストを使用。
2013年度から、区内にキャプテン翼の各キャラクターの銅像が設定されている。

つげ 義春

漫画家

TSUGE,YOSHIARU (1937~)

つげ 義春

[在住期間:1943~1956] 地区:立石・奥戸

前衛的でシュールな作品「ねじ式」の発表で、若者の間で“つげブーム”を起こし、一躍漫画界の寵児となった。90年代になって作品が映画化されるなど、いまだ影響力の大きな漫画家。

略歴

1937年
東京都葛飾区で生まれ、まもなく伊豆大島へと渡る(出生届は大島元町役場へ提出)。
1943年
6歳の頃、葛飾区立石へ転入し、小学校(当時は国民学校)を卒業。
中学へは行かずメッキ工場などで働き、そのかたわら漫画家を志した。
1954年
17歳の時に「痛快ブック」で漫画家デビュー。1955年に単行本『白面夜叉』で本格的な活動を開始した。
1965年
水木しげるらが中心となっていた雑誌「ガロ」に、「」、「チーコ」などの珠玉短編を発表し始める。
中でも養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験を元にした、前衛的でシュールな作品「ねじ式」は大きな反響を呼んだ。若者の間で“つげブーム”が起こり、一躍漫画界の寵児となった。
以後、人間の情念を主題とした独特な“不条理漫画”を、年平均2編という寡作なペースで描き続ける。
1987年
別離」を発表。この作品を最後に新作は発表されていないが、1990年代 に入るとつげファンである竹中直人や石井輝男により「無能の人」「ゲンセンカンの主人」「ねじ式」と代表作が続けて映画化され、 いまだ注目を集める作家である。
2017年
『つげ義春 夢と旅の世界』と一連の作品で第46回日本漫画家協会賞大賞受賞。2020年には第47回アングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞した。

豊田 正子

小説家

TOYOYA,MASAKO (1922~2010)

豊田 正子

[在住期間:1947~1980] 地区:南葛飾郡本田木根川町(現 東四つ木)

小学生の時に書いた作文集『綴方教室』が大ベストセラー、映画化。その後は文学活動、執筆活動を行う。主な著書に『花の別れ-田村秋子とわたし-』、『生かされた命-リハビリを受けながら-』など。

略歴

1922年
墨田区に生まれる。
1931年
葛飾区本田木根川町(現東四つ木)に引っ越してきた。本田第一小学校へ転校。
大木顕一郎教諭の指導で書いた綴方(作文)「うさぎ」が雑誌「赤い鳥」に初入選。
以後、計7編入選した。
1935年
小学校卒業後、日本製紐(株)四ツ木工場でレース工場女工として勤務。
1937年
「赤い鳥」入選作を含めた『綴方教室』が中央公論社から刊行。
当時の大衆の生活を素直な子どもらしい視点から描いていることが話題となり、大ベストセラーに。
1938年
高峰秀子主演で映画化。またこの年『続綴方教室』も刊行。
1945年
戦後は執筆活動に専念。この年、共産党に入党し、江馬修らと“人民文学”を起こした。
1986年
女優・田村秋子の晩年を描いた『花の別れ』で第34回 日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
1996年
脳梗塞で倒れ、リハビリ中に『生かされた命 リハビリを受けながら』を発表する。
2010年
閉塞性黄疸のため、88歳で死去。